廊下を歩くと音が
キュッキュッと、
鳴って、不思議。
(式台の間)
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歩くと、キュッキュッと音を立てる、
「うぐいす張り」と呼ばれる廊下を歩いて
いきます。さて、1867年10月を迎え
た日本はどんな感じだったのでしょう?
その頃の日本は、江戸時代。「暴れん坊将
軍」など時代劇でも有名な時代なわけです。
ともかく、この時代は、徳川家によって
治められていて今、年表なんかでみると
それまでの時代よりはずっと長いし、安定
した、平和な時代のように感じられる方も
多いでしょう。もちろん、そうだったはず
なのですが、1853年に、アメリカから
ペリーさんというかたが、黒っぽい船に乗
って、いきなり日本にやってきてから、
事情が変わってみんな大混乱しはじめます。
なぜなら、それまで日本は、「外国との
お付き合いはしません」という鎖国状態を
守っていて、何回か外国の船が来て通商を
求めたりされましたが、鎖国を理由に断っ
ていたのです。
しかし、1853年に、日本にやってきた
ペリーさんは、それまでの人より、日本の
開国を強く求めてきて、実際かなり強引な
感じでした。江戸時代の日本人が、見た事
もないほどの大きな4隻の船で、「開国し
なければ今すぐにでも攻め込むぞ」といわ
んばかりの勢いで、大砲を打ち鳴らしなが
らやってきたのですっ。これは、今考えて
もかなりこわいというか外交としては、
むちゃくちゃな気もしますが・・・
この頃の、人々の様子は「泰平眠りをさます
上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も
ねむれず」という歌にでてくるほどだったん
ですけど、意味は、上喜撰とはお茶のことで
これを飲むと夜に眠れなくなる。上喜撰と
蒸気船をかけおり、巨大で異様な黒船4隻の
出現は、家財道具を荷車に積んで避難する者
続出したり、危機感をつのらせた武士が
あわてて武具を買い求めたりと、日本人に
とって夜も眠れないほどの衝撃だったんです!
そして、もちろん徳川幕府全体も、びっくり
して大騒ぎになってしまいました。こんな
強引なやり方には、なんとか対抗したい
ところですけど、鎖国してて欧米の近代化の
流れから遠く離れた日本は、攻め込まれたら
到底かなわないわけで、ペリーさんと黒船4隻の
前に屈服するような感じになってしまいまし
た。結局、翌年、ペリーさんと9隻もの黒船が日
本に、返事をもらいにやってきまして、幕府
は、長崎などの港の開港と、物資の補給など
を行う約束を、反対することも出来ずに、
そのまま飲み込むことになったのでした。
皆さんは、当時の人だったとしたら、どんな
心境になったと思いますか〜?いきなり、開国
してこれからどうなってしまうんだろうとか、
外国の技術は実際すごいし、これについていけ
ないと日本はだめだろうとか、いろんな不安や
混乱が一気にふくれあがってしまうかも。そん
なわけで、幕府の役人も同じ心境になり、この
ままこの幕府でやってていいの?といったこと
をみんなそれぞれに考え出します。でも、考え
ることは人それぞれですね〜。幕府はもうだめ。
だめな幕府は武力で倒して自分達がリーダーに
なるんだ!という薩摩藩や長州藩の役人(西郷
隆盛、大久保利通、岩倉具視など)が中心の
倒幕派。それよりも、鎌倉時代よりも前にもど
って、政治の中心を朝廷にかえして、その下で
まとまった新しい政治をしようという幕府側
(徳川慶喜、坂本竜馬、後藤象二郎など)の
2つに、考え方が分かれてきました。
そんなわけで大政奉還は、まず政治の中心を
天皇にお返しして、そこでまた新政府をつくり
ますって意味になります。これは坂本竜馬がア
イデアを出して、徳川慶喜に伝えたのだそうで
す。そこには、「打倒徳川幕府!」っていうこ
とで燃えている倒幕派の目的を、徳川慶喜自身
が幕府を終わりにすることで、無くさせて静め
てしまおうという意図があったわけです。改め
て坂本竜馬の頭のよさを感じますねぇ。将軍慶
喜は、自分としても新政府のもとで、大名家と
なって国政を運営していこうと思っていたらし
く、竜馬の案に同意したのでした。そして、
徳川慶喜は、ここ二条城で大政奉還を決意し、
1867年10月14日、大広間に大名たちを
集めて、改めて大政奉還をすることを発表し、
実に260年あまりにわたった、徳川幕府の幕
を閉じたのでした!
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狩野派の障壁画が
積み重なった歴史
を感じさせます。(柳の間) |
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将軍の寝所。慶喜
は大変な立場で、
疲れていたでしょ
うね。(白書院) |
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徳川家最後の将軍
慶喜。大政奉還を
決断した人です。
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大政奉還が行われ
た大広間。慶喜は
どんな気持ちだった
のでしょうね。 |
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