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10月の歴史 大政奉還と二条城 2002/10/3
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毎月1回、過去のその月にあった出来事を
振り返って、一体どんな事があったのか
調べてみよう!という「今月の歴史」シリーズ。
季節もすっかり秋へと移り変わる10月ですが、
昔はどんなことが起こっていたんでしょうね!?


さてさて、話は今から130年くらい前の10月まで
正確にいうと、1867年10月の京都の二条城まで
さかのぼります。この月、10月の14日にある男が
下した決断は、日本の歴史を大きく変えてしまうほど
大きなものの一つでした。と、いうわけで、今回は、
大政奉還がテーマです。知ってるよって方も、何それ?
って方も、歴史の舞台、二条城へ行ったり、簡単に、
まとめて見ましたので、レポートを見てくださいっ!

 目次  大政奉還を疑似体験!(大政奉還の歴史) 
 二条城の歴史(年表) 

◆ 大政奉還を擬似体験!(二条城にて) ◆

レポーターは、行楽シーズンで賑わう二条城の
門をくぐりました。それにしても、いつ来ても
ここは広々しているなぁ。
いざ、歴史の舞台へ・・・
(二条城 東大手門)

ザクザクと小石の敷き詰められた城内を歩いていきます。
唐門(写真右)と呼ばれる派手な感じの門をくぐって、
奥の二の丸御殿(写真左)までやーっと到着。さて、ここ
から靴を脱いで、御殿の中に入るのですが、一緒に二条城
と大政奉還について振り返ってみましょう。

廊下を歩くと音が
キュッキュッと、
鳴って、不思議。
(式台の間)
歩くと、キュッキュッと音を立てる、
「うぐいす張り」と呼ばれる廊下を歩いて
いきます。さて、1867年10月を迎え
た日本はどんな感じだったのでしょう?

その頃の日本は、江戸時代。「暴れん坊将
軍」など時代劇でも有名な時代なわけです。
ともかく、この時代は、徳川家によって
治められていて今、年表なんかでみると
それまでの時代よりはずっと長いし、安定
した、平和な時代のように感じられる方も
多いでしょう。もちろん、そうだったはず
なのですが、1853年に、アメリカから
ペリーさんというかたが、黒っぽい船に乗
って、いきなり日本にやってきてから、
事情が変わってみんな大混乱しはじめます。
なぜなら、それまで日本は、「外国との
お付き合いはしません」という鎖国状態を
守っていて、何回か外国の船が来て通商を
求めたりされましたが、鎖国を理由に断っ
ていたのです。

しかし、1853年に、日本にやってきた
ペリーさんは、それまでの人より、日本の
開国を強く求めてきて、実際かなり強引な
感じでした。江戸時代の日本人が、見た事
もないほどの大きな4隻の船で、「開国し
なければ今すぐにでも攻め込むぞ」といわ
んばかりの勢いで、大砲を打ち鳴らしなが
らやってきたのですっ。これは、今考えて
もかなりこわいというか外交としては、
むちゃくちゃな気もしますが・・・

この頃の、人々の様子は「泰平眠りをさます
上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も
ねむれず」という歌にでてくるほどだったん
ですけど、意味は、上喜撰とはお茶のことで
これを飲むと夜に眠れなくなる。上喜撰と
蒸気船をかけおり、巨大で異様な黒船4隻の
出現は、家財道具を荷車に積んで避難する者
続出したり、危機感をつのらせた武士が
あわてて武具を買い求めたりと、日本人に
とって夜も眠れないほどの衝撃だったんです!

そして、もちろん徳川幕府全体も、びっくり
して大騒ぎになってしまいました。こんな
強引なやり方には、なんとか対抗したい
ところですけど、鎖国してて欧米の近代化の
流れから遠く離れた日本
は、攻め込まれたら
到底かなわないわけで、ペリーさんと黒船4隻の
前に屈服するような感じになってしまいまし
た。結局、翌年、ペリーさんと9隻もの黒船が日
本に、返事をもらいにやってきまして、幕府
は、長崎などの港の開港と、物資の補給など
を行う約束を、反対することも出来ずに、
そのまま飲み込むことになったのでした。

皆さんは、当時の人だったとしたら、どんな
心境になったと思いますか〜?いきなり、開国
してこれからどうなってしまうんだろうとか、
外国の技術は実際すごいし、これについていけ
ないと日本はだめだろうとか、いろんな不安や
混乱
が一気にふくれあがってしまうかも。そん
なわけで、幕府の役人も同じ心境になり、この
ままこの幕府でやってていいの?
といったこと
をみんなそれぞれに考え出します。でも、考え
ることは人それぞれですね〜。幕府はもうだめ。
だめな幕府は武力で倒して自分達がリーダーに
なるんだ!という薩摩藩や長州藩の役人(西郷
隆盛、大久保利通、岩倉具視など)が中心の
倒幕派。それよりも、鎌倉時代よりも前にもど
って、政治の中心を朝廷にかえして、その下で
まとまった新しい政治をしようという幕府側
(徳川慶喜、坂本竜馬、後藤象二郎など)の
2つに、考え方が分かれてきました。

そんなわけで大政奉還は、まず政治の中心を
天皇にお返し
して、そこでまた新政府をつくり
ますって意味になります。これは坂本竜馬がア
イデアを出して、徳川慶喜に伝えたのだそうで
す。そこには、「打倒徳川幕府!」っていうこ
とで燃えている倒幕派の目的を、徳川慶喜自身
が幕府を終わりにすることで、無くさせて静め
てしまおうという意図があったわけです。改め
て坂本竜馬の頭のよさを感じますねぇ。将軍慶
喜は、自分としても新政府のもとで、大名家と
なって国政を運営していこうと思っていたらし
く、竜馬の案に同意したのでした。そして、
徳川慶喜は、ここ二条城で大政奉還を決意し、
1867年10月14日、大広間に大名たちを
集めて、改めて大政奉還をすることを発表し、
実に260年あまりにわたった、徳川幕府の幕
を閉じたのでした!
狩野派の障壁画が
積み重なった歴史
を感じさせます。(柳の間)
将軍の寝所。慶喜
は大変な立場で、
疲れていたでしょ
うね。(白書院)
徳川家最後の将軍
慶喜。大政奉還を
決断した人です。
大政奉還が行われ
た大広間。慶喜は
どんな気持ちだった
のでしょうね。



◆ 二条城の歴史(年表) ◆

ここで、せっかく見にいったので、二条城って
いつ出来て、今までどんなだったのか、年表で
振り返って、まとめてみました!

年号 西暦 歴史
慶長  6 1601 徳川家康が西日本の諸大名に二条城の建築を課す。
慶長  8 1603 二条城(今の二の丸部分)完成!
慶長 16 1611 豊臣秀頼、家康と会見
慶長 19
元和  1
1614
1615
城内で大阪夏の陣、冬の陣の会議が
開かれて二条城から出陣。
寛永  1 1624 徳川家光、城の拡張・殿舎の整備に着手。
寛永  3 1626 本丸・二の丸・天守完成。今の規模のお城になる〜。
寛永 11 1634 徳川家光、30万人もの大軍を率いて入城。
寛延  3 1750 8月に、雷で天守部分が焼けてしまう・・・。
天明  8 1788 1月、市中の大火事で本丸殿舎などがまたも焼失。
文久  2 1862 徳川家茂を迎えるために、お城の整備と造営。
文久  3 1867 徳川家茂入城。
慶応  2 1866 城内で徳川慶喜が15代目の将軍を継ぐ。
慶応  3 1867 10月、城内に40藩の重役が集まって、
大政奉還の会議が行われる。
二の丸御殿大広間において、徳川慶喜が大政奉還を発表!
明治  1 1868 1月、城内に太政官代(のちの内閣)が置かれる。
明治  4 1871 二の丸御殿内に、府庁が置かれる。
明治 17 1884 7月、二条離宮(天皇の別荘みたいなもの)になる。
明治 26 1893 御所の北東にあった桂御殿を本丸に移築。本丸御殿とする。
明治 30 1897 二の丸御殿の、格天井の貼付絵などを新装。
大正  4 1915 大正天皇即位の大典が行われ、今の清流園の場所に大宴会場を造営。
昭和 14 1939 宮内庁から、京都市が二条離宮を賜る。
昭和 15 1940 「元離宮 二条城」として、一般公開が始まる!
昭和 27 1952 二の丸御殿が国宝に、本丸などが重要文化財に指定される。
昭和 40 1965 清流園を造成。
昭和 57 1982 二の丸御殿の障壁画が重要文化財になる。
平成  6 1994 ユネスコの世界遺産に登録される。

お城は途中で焼けたりしてますが、なんと、
400年もの長ーい歴史があるんですね。
もともとは、徳川家康が京都御所の守護と
上洛したときの宿泊所として作ったものだ
そうです。大政奉還以後、所有者は将軍→
朝廷→離宮→京都市と変わっていきました。
どれだけ、時代の移り変わりが激しかった
のかが、ここだけでもよくわかりますね!



●取材・制作・編集  岡本 卓也

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